まちの資源を見極めて、つくり、育てる。秋田県・小坂町に学ぶ、長期的展望にたったまちづくり

まちの資源を見極めて、つくり、育てる。秋田県・小坂町に学ぶ、長期的展望にたったまちづくり

岩手県盛岡市から車で1時間半ほど走ると、十和田湖の畔にある小さなまちに着きます。現在は人口約5,000人、秋田県の北東に位置する小坂町です。明治時代には鉱山町として栄えたものの、昭和後期の鉱山の閉山により人口や経済の面で大きな打撃を受けました。しかし今また、さまざまな人たちがまちの資源を活かした新たな産業の開発を進めています。かつてのキーマンたちが先見の明と事業への柔軟さを発揮してきたように。

そこで今の開発を担う、観光の中心的存在「康楽館」の運営を行う小坂まちづくり株式会社代表取締役、館長の高橋竹見(たけみ)さん、小坂町総務課企画財政班主事の田中晃大(あきひろ)さん、地域おこし協力隊の佐藤学(まなぶ)さんにお話を伺いました。

「何を残さなければいけないのか」を見極める

美しいアカシアの並木に沿って鮮やかな幟(のぼり)が並ぶ明治百年通り。その中心に佇む建物が、国の重要文化財「康楽館」です。かつて、黒鉱が採れる鉱山町として栄えたこの地には、県内外から労働者が集まり、早くから上下水や電気、鉄道などの生活インフラが整備されてきました。現代の小坂町の観光施設である、康楽館を含めた「近代化産業遺産」もその一つ。館長を務める高橋さんは語ります。

 

小坂まちづくり株式会社代表取締役、康楽館館長 高橋竹見さん

 

高橋さん「康楽館は、今で言う『働き方改革』の一環でつくられた福利厚生施設なんですよ。意外と知られていませんが、小坂鉱山は1909年(明治42年)に日本で初めて8時間3交代制を導入した企業です。24時間操業による事故や生産効率低下の抑止が目的でしたが、さらにその翌年には娯楽施設としてこの芝居小屋を建て、当時唯一の娯楽だった芝居の公演を行うことで、休日の鉱山労働者たちの労をねぎらったのです」。

全国に10箇所ある古い芝居小屋の中で、現役は康楽館のみ。毎年4月から11月の8カ月間で410もの公演を行っており、重要文化財の建物としては極めて特殊です。演目の中心は、明治時代に生まれた歌舞伎をわかりやすい話し言葉にした、人情芝居「常打芝居」。毎年7月には、松竹大歌舞伎も行われます。内容はもちろん、人力で人をせり上げる「切穴(すっぽん)」や奈落(床下)で舞台を回転させる回り舞台の仕組みなど、木造ならではの仕掛けや外観は当時とほぼ変わりません。

 

康楽館の桟敷席

 

高橋さん「当時は小坂町のほかの建築のように洋風様式を模した建物が多くつくられましたが、康楽館は和の要素を入れた和洋折衷が特徴です。今五代目の銀座の歌舞伎座も初代は和洋折衷でしたが、二代目からは和式になりました。和洋折衷の建物は一旦壊されるともう同じ様式では建てられないので、木造の和洋折衷、かつ現役の芝居小屋は珍しいんです」。

近辺には、同時期に建てられたルネッサンス風木造建築「小坂鉱山事務所」ほか、いくつもの近代化産業遺産が並びます。また国道を挟んで位置する「小坂鉄道レールパーク」も含め、活用と保存を並行しているのが特徴。どんなに栄えた鉱山町でも閉山後は足跡が残らない地域が多いだけに、閉山後もこれだけの保存がされてきたのはある意味奇跡。そこには、さまざまな人々の努力があったと言います。

 

小坂鉱山事務所(国重要文化財)

 

高橋さん「康楽館も、本来は壊される予定でした。テレビの普及で芝居小屋の閉館が相次ぎ、1982年(昭和57年)に解体の話が出たんです。その際に、元国鉄職員だった坂下健さんを筆頭に小屋を残す運動が起こり、俳優の小沢昭一さんの説得もあって、当時の木村實町長が鉱山に無償譲渡を申し込みました。譲渡はできた一方、修復費用の支出も大変だったんです。バブル直後で古い建築物を保存しようという考えもなかった時代ですから、当時の町議会では猛反対されたそうです。でも町長は、自分の田畑を担保にするからと反対する議員を説き伏せたとか。この心意気がなければ、今のこの場所はなかったと言えます」。

鉱山事務所の解体案が出た際にも、再びまちが譲渡を申し入れ、康楽館の隣に3年かけて移築。今に至るまでにいくつもの産業遺産建築が集まったのです。

高橋さん「みんなで37年かけてコツコツと残してきたのが、今の百年通りの景色です」

30年、50年、80年先のまちの未来をつくる

建築遺産の運営を行う小坂まちづくり会社。康楽館の管理から始まった事業は次第に広がり、2017年にはまち所有のワイナリーの運営も始まりました。小坂のぶどう栽培は、30年前に交付されたふるさと創生資金を元に開発され、今では中心産業のひとつです。長らく原料として他県に販売していましたが、まちが醸造まで一貫して行おうとワイナリーを建設。原料供給県から製造県へとステップを踏んだのです。

高橋さん「小坂町のワインは日本オリジナルの山ぶどう系品種を使います。80年前から50年かけて改良した山ぶどう4品種を、30年前に植えつけて、やっと今の状態にまでなりました。元々この辺は軽石が30メートル以上積もる火山灰土壌で水はけがよすぎ、作付けできるのがぶどうくらいしかなかった。そこで逆に、小坂の気候や土壌や風土に合い、無理なく育てられる山ぶどう系品種を選んだんですね。適地適作です」。

ちなみにワインは、醸造地の違いで輸入ワインと国産ワインに分類されます。そして国産ワインは、日本産の生ぶどうのみでつくる銘柄(日本ワイン)18%、輸入濃縮ぶどうと日本産ぶどうを混ぜてつくる銘柄82%にわかれます。日本ワインのうち山ぶどうを使う銘柄は3%とさらにわずか。山ぶどうはその75%が東北で生産されますが、東北の小町を含む北緯40°ベルト地帯が65%を占めます。だからこそ、希少で品質が高く、おいしいワインになるのだそうです。

高橋さん「寒暖差が大きいので色が濃く、自然に育てるだけで通常の34倍もポリフェノールが含まれた、ほどよい酸味のあるワインができます。今も新しいぶどう系品種の試験栽培、県の醸造試験場では発酵研究も進めていますが、気の長い話ですよね。そもそも4品種をつくるまでに50年もかかっているのだから」。

85歳で亡くなるまでワイン用山ぶどう品種の開発を続けた澤登晴雄さんの功績は、今もまちの歴史とともに語り継がれています。

高橋さん「ただ、30年前に30件以上で始めたぶどう農家も今は8件だけです。栽培農家さんはみんな経験ゼロから始め、10年目に栽培方法の変更もあり、苦労を重ねてこられました。それだけ丁寧な栽培と醸造方法ですから、同じ品種でも他県で売っているものとは全然違います。輸入ワインは安いですが、小坂ワインには値段では表せない価値や土地の味が詰まっているんです」。

ちなみに、5,000年前の東北の縄文人はすでに山ぶどうワインを飲んでいたと言います。日本人はDNAレベルで山ぶどうワインが合っているから、懐かしくて受け入れやすい味のはず、なのだそう。

まちの資源をつないで新しい観光をつくる

50年かけて品種改良し、30年かけてワインにする。30年以上かけて建築を集めていく。即効的な効果を求める傾向が何かと強い現代にあって、小坂町の歩みは真反対。めざすものに向かって着実に、地道に歩みを進め続けてきたまちのスタンスが、そこかしこに見られます。

高橋さん「ふるさと創生資金が30年後に実を結んだ自治体の例は、あまりないのでは。ワイナリーの建設、康楽館の整備や鉱山事務所の移築もまちの財政だけでは難しかったはずですが、その時代ごとに補助金を適切に申請し、一歩ずつ実現させることができた結果なのでしょう。その意味で小坂町はツキを持っているし、役場の職員さんたちがまちの未来像を明確に掲げてきたからこそ、僕らも安心して未来に進んでいけるのだと思います」。

目下の課題は人材の確保。長年かけて軌道に乗せた事業を受け継いでもらうためにも、もっと多くの人に来てもらいたいと力を込めます。そこで、まちのすばらしさを県外に広めるべく、この9月には「ワインツーリズム」をスタート。ワインや地元の食材、そして近代化産業遺産建築をつなぐ観光資源にしたいと考えています。

聞けば、ワイナリーの見学とぶどう畑で栽培史の解説とぶどうの手摘み体験、桃豚やかづの牛などのバーベキュー、ワインセミナーも兼ねてワインを楽しみ、小坂鉄道レールパークの寝台列車あけぼのに宿泊し、翌日は康楽館で芝居を観賞。12日には十分すぎるアクティビティが、このまちで完結できることに驚くばかりです。

 

康楽館(国重要文化財)

 

高橋さん「まちの自慢は何かと問われたら、子どもも大人もみんな康楽館だと答えるでしょうね。それだけ誇りを持てるものがあることが、小坂町のいいところ。このワインツーリズムを通じでお客さんをもっと呼び込めたらと思います」。

でも、秋田県は東北で一番観光客が少ない県なんです、と残念そうな高橋さん。

高橋さん「だからこそ、小坂はもちろん秋田全体に交流人口を増やさなければ。ここが少しでも稼げる観光施設になれば雇用を拡大できるし、ぶどう農家さんの栽培量や収入も増え、若い世代がUターンしてくれる可能性が高まります。地元の酒屋さんもワインを目玉にでき、食材の消費量もあがりますよね。まち全体がつながって活性化していけることが、今の一番の目標です」。

20年間、足を運んだ小坂町に、地域おこし協力隊として移住

さて、明治百年通りは現在の観光化の軸となりましたが、この一体が整備されたのは、2013年から2016年に小坂町が行った「明治百年通りにぎわい創出プロジェクト」からだったそう。観光交流センター「赤煉瓦にぎわい館」や「小坂鉄道レールパーク」の整備、周辺施設を博物館的にまとめる施設案内の設置などが当たります。小坂町地域おこし協力隊で移住コーディネーターの佐藤学さんが語ります。

 

写真左:小坂町総務課企画財政班主事 田中晃大さん、写真右:地域おこし協力隊 佐藤学さん

 

佐藤さん「小坂鉄道レールパークから明治百年通りまで、このナンバリングされたサインボードを巡りながらガイドさんに各施設の歴史を解説してもらい、施設を見て回る『青空の博物館』という試みも観光課で始まっています。イベント的にはまだ実験段階のようですが、これが一つの形になれば観光に来られた方へのアピールになりそうだと感じます」。

その佐藤さんも、じつは7月下旬に移住したばかり。小坂町の地域おこし協力隊として、町役場での勤務もようやく1カ月というところだそう。採用担当の田中晃大さんが、小坂町での地域おこし協力隊や移住定住施策について教えてくれました。

田中さん「移住定住の主要施策として、2016年から地域おこし協力隊の募集を始めました。一つ目は新規就農を目指すぶどう栽培従事者、二つ目が移住施策に協力していただける移住コーディネーターです」。

毎日少しずつ役場での仕事を学んでいる佐藤さん。神奈川県に生まれ、前職は東京で映像編集の仕事をしていたという彼が、なぜ地域おこし協力隊として移住を決めたのでしょうか。

佐藤さん「他の協力隊の方とは全然違う流れだと思いますね。小坂町とはもう20年来のお付き合いでして」。

20年前、Uターンした小坂町出身の友人に誘われて十和田湖畔の「国境祭り」に訪れたことがきっかけ。本祭の「小坂七夕祭」にもぜひと誘われ、以降は毎年小坂町を訪れてきました。そんな中で、普段から見ていた小坂町のFacebookで移住定住イベントがあると知ったと言います。

佐藤さん「映像業界で30年働いてきて、業界も転換期という中で自分のこれからを考えるようになっていたんです。編集ソフトさえあれば、作品もパソコン1台である程度まで完成できる時代です。移住をすすめられても仕事面の不安でずっと踏ん切りがつかなかったけれど、今ならなんとかなりそうだと。そう思い始めた時にちょうどイベントの情報を見つけ、勝手に小坂町の紹介ビデオを制作して、ブースに押し掛けたんです」。

SNSのどこにも映像がないことが気になり、映像ならもっとわかりやすく、コンパクトに情報を伝えられるはずだと考えたのだとか。そこで、掲載写真から作ったPR映像と提案書を手に、役場の広報担当として映像制作の仕事ができないかと直談判したのです。なんという行動力!

田中さん「協力隊の仕事内容へのご相談は、相手方の性格や想いをできるだけ活かせるようにと思っています。佐藤さんのご希望は、広報関連での動画制作職への希望と機材の整備でしたが、そもそも役場には広報職の枠がなく、採用できても専用の備品費用を取るのは難しい。でも協力隊なら内容も柔軟にできますし、備品費用もあるので近い仕事ができると考えてご紹介しました」。

佐藤さん「そうなんです。移住コーディネーターも地域の情報発信を行う仕事なので、そちらをまずやってみてはどうかと提案くださって。希望した職はなかったけど、同じ活動ができるよう調整していただけたのはありがたかったですね」

協力隊はぶどう栽培がメインだと思っていた佐藤さん。移住コーディネーターなら確かに近い仕事だとその場で応募。ちなみにイベントは5月末、7月上旬に面接と採用通知を受け、15日に退職して20日には小坂町へ移住しています。あまりの早さに地元の友人たちも驚くほどでした。

田中さん「ただ、いざ移住となると問題も見えてきます。単身者向けの民間アパートの空きがあまりない場合もありますが、協力隊の方には僕がきちんとアパートや空き家などを探してご提供しますから大丈夫です。もし、すぐに見つからなくても、協力隊の方は2棟あるまちの移住体験住宅に任期中は無料で入居できる仕組みなので、順次、町営住宅やアパートを見つけて移動いただける流れになっています」。

また、佐藤さんのように知人がいればいいけれど、意気込んで応募や移住をしても、小さなまちでうまくなじめるかと不安に感じる人もいるかもしれません。そんな移住者や地域おこし協力隊に対しては、まち側でどんなケアがあるでしょうか。

佐藤さん「そういう人にサポートやアドバイスをするのが、移住コーディネーターの仕事です。生活の発見や季節の困りごと、買い物の場所やバス情報、暮らす人から観光客まで小坂町に関わる人の知りたい情報を、経験者なりの知識で補ってあげられればと。すでに移住体験ツアーの参加者さんやメールでの問い合わせなどに対応していますし、僕のような人間を置くことが一つの対応策だと思います」。

まちに馴染むには自らの積極性も大事、と佐藤さんは言います。まちの人に祭りや行事の時に声をかけてもらうためのサポートはできても、自分から行動を起こさなければ人の輪は広げられないからです。

佐藤さん「人とつながろうとするには本当にいいまちですよ。『誰も何も取らないから鍵なんかかけなくても平気だよ』と言ってくれるくらいのあったかさ。朝は知らない人でも挨拶をするし、歩いていると『どこ行くの』ってみんなが声をかけてくれますから」。

田中さん「飲みに行けば自然と仲良くなりますよ。飲み屋のママさんが知らないお客さんに話を聞くから、その話が自然に別のお客さんにも伝わっていることもよくあります。町外からの転勤者が多いですから、元々外からの人の受け入れにも慣れているんだと思います」。

 

町役場3階からの景色

 

映像制作によるPR活動も、徐々に進めていく予定の佐藤さん。まちのできごとを収めた短いニュースや行事のお知らせなどをYouTubeチャンネルに集約し、貯まったら一本にして町役場や待合室などで流すような町民向けの情報づくりができたらと語ります。

まちへの愛がたっぷりの佐藤さんがどんな場面を切り取るかが気になるところ。動画制作が始まったら最初に撮影してみたい場所も聞いてみました。

佐藤さん「産業遺産建築などの有名どころのは恐らくもうあるでしょうから、むしろ今まで収められてこなかったであろう、まちの四季や風景を撮ってみたいですね。十和田湖を一望できる発荷峠からの四季の移り変わりや、田んぼのど真ん中から見るごく日常の風景、この時の小坂町はこんな風景だったんだなと思い出せる歴史的資料が撮れたらと。こんな場所があるのかと発見できる映像もつくりたいですね」。

人間らしい暮らしと関わりを見つけられる場所として

産業だけでなく、サテライトオフィス(七滝活性化拠点センター)開設などの試みもある小坂町。田中さんは、人口減少を止めることはできなくても、それを乗り越えられる魅力あるまちにしたいと語ります。

 

廃校となった中学校がリノベーションされたサテライトオフィス(七滝活性化拠点センター)

 

田中さん「ひいき目かもしれませんが、やる気のある職員が多いんです。新しいことを始めようという空気が役場内にもありますから、町外からパイオニア精神にあふれる人が来てくれたら嬉しいですね」。

そして最後は、お二人に小坂町のいいところを伺ってみました。

佐藤さん「自然とともに生きられるまち、というところでしょうか。夜がちゃんと夜、なんです。東京にいた頃は幹線道路沿いの住まいで一日中騒がしかったんですが、今は20時になると聞こえるのは虫の鳴き声だけ。時間に追われる感覚もなく、眠りの浅かった僕が熟睡できるようになって驚いています。本来の人間らしい暮らしってこういうものだったんだ、と改めて実感しますね」。

田中さん「ずっと心に残っていることがあるんです。僕は町外からの採用で、今も隣の鹿角市から通っていますが、入所直後にどこの人か聞かれて、鹿角市だと答えると、みんな「よく小坂に来てくれたね」とやさしい言葉をかけてくれて。自治体職員ならその土地に住むべきだという暗黙の了解があると思っていた中で、そのやさしさにすごく安心できた。そういう人柄のよさが小坂のいいところだと思います」。

その言葉には、外から来た人の一人である佐藤さんも深くうなづいていました。

産業遺産を残そうという先見の明と、山ぶどうワインづくりに80年かける忍耐力、そして五感を楽しませるおもてなしの企画力を持ち、アグレッシブかつ地道に活動をしてきた秋田の田舎まち。古くから、人好きな人々は外から来る人たちをやさしく迎えていたはず。今もきっと、再びたくさんの人が訪れることを心待ちにしているに違いありません。

この記事は、秋田県 小坂町のご協力により制作しています。

文 木村 早苗
写真 池田 礼