長野県北部、千曲川の東に位置する小布施町。山々に囲まれた豊かな自然のもと果樹農業を中心に栄えてきました。江戸時代には葛飾北斎をはじめ、江戸や京都から文人が多く集った場所でもあります。
40年前から独自のまちづくりを開始し、今では一度小布施町に訪れると誰もがファンになって帰るという噂も……。そんな小布施町を先導するのが町長の市村良三さんです。なぜ小布施町は人を惹きつけるのか? そして移住者や定住者が増えている理由を、まちづくりのあゆみとともに教えていただきました。
小布施のまちづくりのあゆみを知る
市村さんが現職に就いたのは2005年。小布施町では、その30年前から独自のまちづくりが行われてきました。町内外の人々との交流や協業に着目した現施策はいわゆる第2段階。そこでまず、第1段階でどのような施策が行われたのかを振り返ってみましょう。
すべての始まりは、1976年の葛飾北斎の作品を収蔵する「北斎館」の開館。まだ珍しかった地方美術館であり、さらに貴重な肉筆画が多いことで全国的に話題になりました。国を挙げて工業化が進んだ1960〜70年代に、市村さんの伯父である当時の町長は、果樹農業中心の「農業立町」を宣言。北斎館を通じて文化遺産に光を当てることで「文化立町」としての立場づくりにも成功しました。
市村さん「伯父の考え方にはずいぶん影響を受けました。北斎館の在り方もその一つです。おもな目的は、まず祭り屋台の保護。次に北斎の作品は小布施町の宝であることを町民のみなさんに意識してもらい散逸を防ぐこと、そして北斎や浮世絵と江戸文化の研究拠点としてもらうこと。その上で、運がよければお客様が来てくださるよと。集客目当てで何かをつくる話が多い中で、そうした考え方にすごく納得させられたんです」。
「当時は自分が当事者になるなんて思っていませんでした」と市村さん。30歳で東京からUターン後は、地元小布施堂の経営者として北斎館周辺の整備を進めました。行政から、北斎を招いた豪農商で儒学者でもある高井鴻山の隠宅を記念館化する計画が出された際には、その一帯約5,000坪を整備する「町並修景事業」を主導。
市村さん「関係した企業や個人が、やってよかったと思える事業にしたいと考えました。一番は、地元民の生活や文化が少しでも快適でよくなる住空間の整備。これは今でも私の根っこにあります」。
2000年には、個人宅の庭を開放する「オープンガーデン」が始まります。人を自邸に招くことが日常茶飯事だという小布施地方。じつはその礎は、先の高井鴻山の時代、江戸時代末期にありました。北信濃の経済の中心地として栄えた頃に文化の成熟もめざす。自邸をサロン化して北斎らを招いた高井をはじめ、まちの有力者は、洗練された文化を取り入れようと江戸や京都から文人を招いていたのです。
市村さん「お客様に情報を持ち込んでもらうことで、まちや町民のみなさんの意識が磨かれて新しい小布施ができる。その精神を参考にしたのが、北斎館以降のまちづくりです。町民のDNAには、今も「まれびと感覚」があるんですよね。排他性が少なく来客を心から喜ぶ町民性、若い人がのびのび活動できる空気があるからこそ、訪ねてくださる方も多いのだと思います」。
“田舎だからこそ”の可能性を見出せたと語る市村さん。若者たちの意見を活かしたイベントや事業を町内外で行い、そのたびに関わる人の思いや交流の大切さを意識してきました。ビジネス的な視点が必要な時も、自分たちやお客さんが楽しめる形は何かと模索し続けたのです。
市村さん「土地の文化や暮らしの深い部分に触れた時に、人は楽しさを感じるんじゃないでしょうか。たとえば私は、外から来られた方はみなさん素敵だから、一杯やりたくなっちゃう。そこで私たちの知らない話をしてくださったり、小布施町を楽しんでくださったりしてつながりができることのほうが、ビジネスよりも重要なんです。観光客が何万人いるよりも、いざという時に私たちの仲間になろうと思ってくださる人がいるほうが嬉しい。でも、そのためにはまちがチャーミングじゃないとだめなんですよ」。
「ビジネス優先でつくられたまちは、誰にも愛されていない気がしてしまうんです」とも。そんな、日本のどこかに存在する町を憂えるその表情には、切なさが少し滲んでいました。
町内外の交流と協働、若者の意見から小布施らしさを見出す
そして、市村さんの就任後に第2段階へ。まちが自立できる仕組みや環境を整えながら「小布施らしさ」の模索をはじめます。一番大切なのは「小布施に住む人が、生活が楽しくて仕方がないと思っていること」。「悲壮感漂う場所に来てとは言えないですよね」と笑う市村さん。確かにその通りです。
市村さん「100年で住民の半分が入れ替わるくらいの混沌さがあってもいいのではないでしょうか。そうした中で、若い人から新しいものが生まれていくのがいいのかなと」。
最初の気づきは、若者グループの要望が発端になった民間のみなさんによるスノーボード施設の建設でした。古い公園を再利用してできた施設は、外周部にも若い人の流れをつくる具体例になったのです。
市村さん「そこで、いつの間にか自分にも固定観念ができていたと気づきました。より一層、外のいろんな人の話を聞くことはもちろん、若者の意見にも注目してみようと思ったんです」。
学生運動が活発で、大人世代が若者と向き合う余裕もあった1970年前後の若者とは違い、今は将来の保証もなく意見を言う場もない。それなら小布施で若者が意見を言える場をつくろうと市村さんは考えました。
市村さん「それが2012年に始めた「小布施若者会議」です。初回は約250人が参加してくださいました。最初は、未来の日本や地域、社会をどうしていくかという意見や不満を若者が発する場と考えていたのですが、今の仕事が社会に貢献できているか、今後の共生社会をつくるにはどうすべきかと語られる方がとても多かったのです。また新しい目を開かせていただいた気がします」。
1万人規模のまちだからこそできることも、たくさんあります。高校生向けサマースクールH-LABも始まり、今では定期的に若者が小布施町を訪れる流れができました。こうしたイベントや課外活動で数日間を過ごすことで、地元に戻ってから自主的に小布施を盛り上げる活動を始める学生や人が多いのだとか。そんな彼らを、地元の人びとは「第二町民」と位置づけています。ちなみに各自治会がその誇りと自信をかけて対決する「町民運動会」にも、第二町民と小布施町出身者がつくる「おぶせ応援チーム」が27の自治会に加えて参加するそう。いわゆる一般的な観光地では起こり得ないことです。
市村さん「普通なら並ばないような所にも、一緒に並べるようにしたんです。地域行事に当事者として参加できないと面白くないでしょう。町内にある宿泊施設の少なさも、つまるところそういうこと。おぶせ応援チームを自治会と同列に扱うように、来た人をまちに混ぜ込む感覚というか。例えばコンベンションがある時も、ホームステイさせてくださるお宅が50件ほどあるので、既存の宿泊施設とで200人は収容できてしまうんですよね」。
町外の若者との交流をつくる場が「小布施若者会議」なら、町内の世代を超えた議論としてまちとの連携をつくる場が「地域の未来づくり会議」です。小布施町と慶應SDM研究所が中心となって2014年に始まったこの取り組みは、町外の大学や専門機関、企業も協力するプロジェクトです。2017年からは、地域課題を解決しながら未来像を描く「小布施会議」として開催しています。
市村さん「課題を整理し、未来に進む方策を考える場です。日本の町村には課題がつきものだけど、それをいかに明るく解決するかが大切。中の人の意識改革はもちろん、前提として町外の人の刺激や情報がないと解決できないという点に着目した結果です。会議が多いので、取り上げた議題は必ず実現するという共通認識があります。でないと会議が無意味になってしまうから」。
なぜ小布施には移住者が多いのか
町内外に向けた幅広い取り組みを進め、未来に向けたまちづくりを進める市村さん。訪れた人に住みたいと思わせる「核」を一言で言うと?
市村さん「うそを言わないこと。それだけかと思われるかもしれませんが、じつはすごく大変なんですよ。たとえば、先ほど出た自治会も、高齢化がすすんでいます。もし移住を希望されても、たくさんの地域行事への参加と活動をお願いしますがいいですか、という説明が不可欠です。きれいごとは嘘をつくことになるからね。でも同じだけの「あなたが来てくださったら本当に助かります」という思いがあります」。
自治会なんて形骸化したものを大事にするのは無意味だ、と考える人は一定数いるかもしれません。でも、バカバカしいと思えば全部がそうなってしまう、と。
市村さん「人は、そういう仕組みがあるからこそ意外とつながれたりするものです。その価値は若い人ほど響くだろうし、知らない人にも教えてあげれば、楽しいと思ってもらえると思っています。言い換えれば、この地域をあなたたちでつくってほしいということですから」。
全国どこに住んでいても大変なことはあるから、同じやるなら小布施でやりませんかというお誘いだと笑います。行き詰まったら寄り合いの中で新しい人々を紹介する配慮も私たちの役目だと、頼もしい言葉も。
市村さん「私は、家もコミュニケーションのツールだからね。たとえばお客さんのほうが、うちの冷蔵庫の中をよく知っていると思いますよ(笑)。人ってそういう内側こそが面白い。昨今プライバシーがよく言われますが、ここ60年ほどの価値観だし、本来日本人はそう強くないんじゃないかな。自ら選んだ結果が孤立だなんて切ないもの。ぶっちゃけて恥ずかしいけどどう?なんて関係性のほうが楽だと思うんです」。
人と人のつながりを大事にし、町民の暮らしを第一に据えた斬新なアイデアで、課題解決に務めてきた小布施町。次の段階となる人を新たに迎え入れる、いわゆる移住定住施策につながる計画も進行しつつあるようです。
まずは町周辺部での、農村景観を保全しながらの宅地開発、そして再生可能エネルギー設備の開発です。それから、第二町民の若手起業家と組んだエネルギー設備と、宅地開発の連携事業や周辺市町村との連携開発も思案中だそう。そして、町中心部を通る国道の人を中心に於いたみちづくり。県の提示した画一的な都市計画に対して、30年以上かけて町並みを活かした歩道デザインを提案、県も賛同して一体となって行う事案です。
市村さん「エネルギーも国道も、いわゆる住民運動で実現したものです。反対中心でネガティブな印象があると思いますが、国道の提案はポジティブです。30年以上かかりましたが、ようやく要望が取り入れられ、今は長野県の五カ年計画の目玉になっています。地道に活動するのは、農業町としての小布施を守りたいから。デザイン画にあるように、空きスペースでマルシェをやるとか、農業もかっこよくやればいいですよね。まちづくりを通じてそういう思いを発信していれば、共感していただける方がいらしてくれるのではないかと思います」。
江戸時代からの生活道路を再整備する、東京理科大学の赤道再生プロジェクトをはじめ、フィールドワークを進めたり、町並みに関する研究拠点を置いたりする大学の研究室も増えました。先の都市計画については、東京大学先端研の研究室が全戸アンケートをおこなっています。
市村さん「地域にお住いのみなさんは、一般的には都市計画の策定に参画できないと思われています。
でも、自分たちも参加できる、自分たちでまちをつくるという意識が重要なんです。どこで何が決められようとノーならノーと言える、それを具現化できるまちでありたいと思っています。それは第二町民のみなさんも同じで、町外からまちづくりに関わっていると意識していただくことが大切です」。
いわく、小布施には「そこを通すと価値を転換してアウトプットするフィルターのようなもの」があるのだそう。ちょっとかっこつけた言葉ですが……と照れつつ、そのフィルターの精度を上げる協力を町外の人にもぜひお願いしたいんです、と言葉を重ねました。
日本の田舎には可能性がある
町民同士、住民と行政という関係を中心に、町外からの個人や大学や企業。関わるみんながまちづくりを介して信頼しあい、協力しあう。小布施の魅力は、そんな空気感が生み出した結果だと言えそうです。移住定住施策は各地方で行われていますが、お金やものではなく心が人を呼ぶ。おそらくそれが、小布施が移住定住者を増やすことに成功してきた理由なのでしょう。
市村さん「でも、どの地方も本来は小布施と同じなんですよ。少し違うのは、まちの人のほんの少しの意識の差。そういう意味だと、小布施の人は町民力が高いと思います。町民力とは、一緒にやろうぜという共存共栄力と、どんな方がいらしてもお迎えできる交流力のことです」。
玄関先に置かれた野菜や果物のお裾分けを日常として楽しめるような、故き良き時代の信頼感。今や都会では難しくなってしまった心配りを素直に受けられる意識は、町民力の柔軟さがなせるともいえます。
その一方で、近年の美術館施設を再利用したボルダリング場など、スノーボード施設に端を発す若い世代のアイデアが日々町を活性化しています。スラックラインのW杯開催や競歩のオリンピック銅メダリスト荒井広宙さんも輩出。浮世絵を活かした文化に加え、スポーツでも有名になりつつあります。
市村さん「私も、もう若者を応援する世代です。かつて上の世代の方々が自分たちの活動を応援してくださった記憶を思い出し、何をすべきかをいつも考えています。改めて言いますが、日本の田舎はどこもすばらしい。小布施だけでなくどの田舎にも可能性はあるんです。すばらしい人と土地と強い誇りがある。そんな田舎が滅びていくのはちょっと違うんじゃないかと思っています」 。
どんな田舎にも可能性があり、ほんの少しの力でその可能性を大きく引き出すことができる。町民とともに人を招き入れ、まちの力を増やしてきた市村さん。その思いの元には、小布施だけでなく日本の地方や田舎のすばらしさ、可能性を愛する気持ちがあることがとても強く伝わってきました。人を惹きつけ、留まりたいと思わせる小布施町。同じ思いがあれば、じつはその取り組みはいろいろな場所で実現できるのかもしれません。
文 木村早苗
写真 上山彩