島根県の北に浮かぶ隠岐諸島、海士町は多くの移住者を受け入れているだけでなく、海士町でまちづくりを学んだ人たちが日本各地でその地域づくりにたずさわることで、さまざまな地域が元気になる原動力になっているようです。
今回は、そのような人たちの活躍を見ながら、なぜ海士町が地域を元気にする原動力になれたのか考えてみたいと思います。
海士町でまちづくりを学んだ人、あるいは海士町出身、それから(住んではいない)海士町の応援者まで、たとえばこんなひとたちがいます。
・後藤隆志さん
2005年海士町に移住。元・海士町商品開発研修生として島のハーブティー「ふくぎ茶」の商品開発をするなど、地域資源の発掘とその活用に奔走した。その後地元の大分県別府市に帰郷して「夜カフェ10」という飲食店を起業し、地元を良くする人が集い、別府市と海士町など地域同士をつなぐ拠点づくりに挑戦中。
・サミーラ・グナワラデナさん
2006年海士町に移住。海士町観光協会で島宿の立ち上げなど様々な戦略の実行を担う。スリランカ出身で「外国人による日本語弁論大会」で海士町のまちづくりについて語り、外務大臣賞を受賞。現在は島根県奥出雲町観光協会にて、たたらを軸とした奥出雲町観光協会のマネジメントをしている。
・岩本悠さん
2007年海士町に移住。隠岐島前高校で高校魅力化プロジェクトを立ち上げ、島内進学率と島外入学者数を向上させることで、廃校の危機を救う。その経験をもとに、2015年より島根県教育魅力化特命官、2017年より一般財団法人地域・教育魅力化プラットフォーム共同代表として、島根のみならず日本全体に「教育による持続可能な地域づくり」を広げている。
・高野清華さん
2007年海士町に移住。株式会社巡の環の起業メンバー。2012年まで海士町で活動したのち、山陰を拠点に聞き書きライターとして活動。2013年に合同会社じゅんぐり舎を設立し、地域コーディネーターとして活動を続ける。熊本県山都町などのまちづくりに携わる。2019年より長崎県対馬市にある一般社団法人MITに参画。
・信岡良亮さん
2008年海士町に移住。株式会社巡の環の起業メンバー。小さな会社が島の課題解決をしながら雇用を生み出そうと挑戦するが、地域の課題は都市と農村の関係性を見直さなければ解決しないと気づく。現在は東京を拠点に株式会社アスノオト代表取締役として、都市農村関係学を広げ、学習するコミュニティをつくる「さとのば大学」の立ち上げを準備中。
・西上ありささん
studio-Lのメンバーとして第4次海士町総合振興計画に関わり、そのアイデアを実現するために2010年海士町に移住。廃校を活用したコミュニティスペース「あままーれ」や海士町集落支援員を立ち上げたのち、現在は日本全国を飛び回り、コミュニティデザインの手法を使ったプロジェクトに取り組んでいる。
・松島宏佑さん
2010年海士町に移住。元・巡の環社員。東日本大震災をきっかけに地元宮城に戻り、海士町のまちづくりの要素を震災復興にも生かすべく、一般社団法人ふらっとーほくを起業し独立。株式会社BIOTOPEで、企業や組織で働く一人ひとりの妄想や想いに熱を吹き込んでいたが、現在育児休暇中。神奈川県葉山町に移住し、詩や時間をテーマにしたアーティスト活動も始めている。
・竹本吉輝さん
2011年海士町に移住。林業再生からの地域づくりを支援する株式会社トビムシの代表取締役。海士町に2年半移住。その間は島前高校魅力化プロジェクトにアドバイザー他として関わる。現在、AMAホールディングス島外取締役として、地域経営のあり方を元・海士町民の目線から模索している。
・石坂達さん
2012年海士町に移住。元・巡の環社員。島を学びの場とする地域コーディネーター研修や企業向けの研修事業の推進、海士町景観計画の策定などに携わる。その後久米島に移住し、地域おこし協力隊として移住施策のサポートをしたのち、現在は久米島にて起業準備中。
・大辻雄介さん
2014年海士町に移住。島前高校魅力化プロジェクトにて教育のICT活用を推進する(総務省地域情報化大賞アドバイザー賞受賞)。現在は、高知県土佐町にあるNPO法人SOMA副代表理事 兼 嶺北高校教育振興監。嶺北高校魅力化プロジェクトを立ち上げ牽引する。
・中川覚敬さん
2015年海士町に移住。海士町役場 地域教育魅力化コーディネーターとして、文部科学省から2年間出向。島前高校魅力化プロジェクト、海士町版地方創生総合戦略策定の事務局として活躍。現在は文部科学省に戻り、学校における働き方改革やへき地教育の振興を推進しながら、地方創生コンシェルジュとして島根県を担当。
・大脇政人さん
海士町生まれ、隠岐島前高校の卒業生。早稲田大学に入学したのち、1年間休学して、久米島の教育魅力化プロジェクトに参画し、学習センターの立ち上げを行う。大学卒業後は人材育成に携わる企業で働く。
・古川森さん
2013年、隠岐島前高校への島留学生として海士町に移住。地域を創る大人たちの背中を目指して、高知大学地域協働学部に入学し、さらに地域への関わりを深める。卒業後は、高知市の菜園場商店街内にある「TOMARIGI HOSTEL」のスタッフとして場が持つ可能性を追求中。
・沼田啓佑さん
海士町生まれ、島前高校の卒業生。島前高校在学中に、生徒会長として学校創立60周年記念学園祭の企画を行う。現在は法政大学4年生で、国際協力に関心を持ち、認定NPO法人かものはしプロジェクトにてインターン生として取り組んでいる。
・梅原真さん
梅原真デザイン事務所代表。高知を拠点に、一次産業×デザインの先駆者として、その土地が持っている力を引き出し、失われてはいけない風景を保つデザインを日本全国で手掛けている。海士町にも20年以上前から深く関わり、「島じゃ常識サザエカレー」「ないものはない」のコンセプトを生み出してデザインを制作し、海士町のまちづくりに大きく寄与している。
・枝廣淳子さん
大学院大学至善館教授。幸せ経済社会研究所所長。有限会社イーズ代表取締役。世界中の知見を集めて持続可能な未来に向けて新しい経済や社会のあり方、幸福度、レジリエンス(しなやかな強さ)を高めるための考え方や事例を研究している。海士町魅力化ファシリテーター、明日の海士をつくる会アドバイザーとして、持続可能で幸せな海士町の未来づくりにも参画中。
・水谷智之さん
株式会社リクルートキャリア初代社長。海士町魅力化プロデューサー、隠岐島前高校の学校経営補佐官として、島全体や学校の経営における助言・補佐、地域・社会との連携推進を担う。岩本悠さんと共に隠岐島前高校の経験をもとに「教育による持続可能な地域づくり」を全国・世界に広げる一般財団法人地域・教育魅力化プラットフォームの代表理事、社会人大学院大学 「至善館」 理事兼特任教授、(株)オプトフォールディング取締役も務める。
・藻谷浩介さん
地域エコノミスト。日本総合研究所調査部主席研究員。平成大合併前の約3200の市町村すべて、海外106カ国を私費で訪問。地域特性を多面的に把握し、地域振興や人口問題に関して精力的に研究・執筆・講演を行っている。著書に『デフレの正体』、『里山資本主義』などがある。海士町にもたびたび来島し、人口・経済のデータを読み解き、海士町の現在と今後の展望への助言を行う。
・十枝裕美子さん
京都で分散型ホテルENSO ANGO を運営するアンゴホテルズ株式会社の代表取締役社長。以前より関わりがあった海士町で唯一のホテルを経営する株式会社海士の取締役に就任し、AMAホールディングス株式会社の立上げに参画するなど、海士町の観光業の地域経営に中心的な役割を果たしている。
・三田愛さん
株式会社リクルートライフスタイルじゃらんリサーチセンター研究員。地域の人たちが社会課題を自分ゴト・みんなゴトと捉え、コ・クリエーション(共創造)し、自らの力で価値創造し続けるための地域イノベーション研究や、 地域創発のファシリテーターをつとめる。海士町に様々な関係人口を深くつなぎ、大きなインパクトを与えたコクリ!プロジェクト発起人、コクリ!海士の企画者。
ざっと見ただけでも、日本全国津々浦々に地域をつくるプレイヤーがいて、やっていることもさまざま。
まずは、なぜ海士町からこのような人がたくさん生まれたのか、「風と土と」代表の阿部裕志さんに聞きました。
阿部 裕志さん
株式会社風と土と 代表取締役
一般社団法人ないものはないラボ 共同代表
海士町教育委員
1978年愛媛県生まれ。トヨタ自動車の生産技術エンジニアとして働くが、現代社会のあり方に疑問を抱き、2008年海士町に移住、株式会社巡の環を起業。島の魅力を高める地域づくり事業、島外の企業や自治体、大学の研修を海士町で行う人材育成事業、島産品の販売や海士町の魅力を発信するメディア事業を行う。田んぼ、素潜り漁、神楽などローカルな活動を実践しつつ、イギリス・シューマッハカレッジやドラッカースクール・セルフマネジメントなどのエッセンスを活用した研修プログラムづくり、JICAと提携し海士町とブータンとの交流づくりなど、グローバルな視点も取り入れながら、持続可能な未来を切り拓いている。2018年株式会社風と土とへ社名変更。著書「僕たちは島で、未来を見ることにした」(木楽舎)
はじまりは、地元民の危機感
海士町でまちづくりを学んだ人たちが日本各地で、その地域づくりを担う。そうした現在の海士町を「まちづくり」という切り口から表現すると「関係人口のハブ」とたとえることができそうです。人が人を呼び、生まれていったこのハブの成り立ちをさかのぼってみると、最初の最初にあったのは地元の人の”危機感”だといいます。
阿部さん「地元のキーパーソンに聞くと、十数年前、自分たちだけで自分たちの島を守ることに限界を感じ、わらにもすがる思いで誰でもいいから助けてほしいと言うようになったそうです」。
つまり、地元の人たちの危機感がその始まりにあった、ということ。阿部さんは、海士町の人たちが危機感を持った理由として「失いたくない気持ちが強かった」ことと「外部との交流があったこと」を挙げます。
阿部さん「行動を起こすための危機感を感じるためには、無意識にある「失いたくない気持ち」に気づく必要があります。失いたくない、守りたいものというのは当たり前にあるので、ほとんどの人はそれが失われそうなことに気づいていません。でも、外の人と交流することでその当たり前にあるものが大事なもので、かつ失われそうであることに気づくのです。その時失いたくない気持ちが強ければ、行動に移すことができます」。
はじめに危機感を抱いたのは「海士町役場の職員だった」と阿部さんはいいます。海士町は以前から東京都国立市と交流があり、国立市にある一橋大学に中学生が修学旅行で行ったり、大学生が遊びに来たりということがあり、そこで外部の声に耳を傾けることができたのです。
阿部さん「十数年前のことですが、島唯一の高校である隠岐島前高校の生徒数が減少し、廃校になりそうになっていました。そのことを一橋大学の学生と話し合う中で、当時4年生だった尾野寛明くんが中心になって「AMAワゴン」という企画が生まれたそうです」。
「AMAワゴン」は、都会の学生を海士町に連れてきて、講師も外から呼んで行う「人間力」を高める教育プログラム。海士町と一橋大学の関満博研究室が共催し、最初は海士町の職員が片道10時間バスを走らせて、東京の若者を海士まで連れて来ていました。
阿部さん「当時は誰も海士町のことなど知りませんでしたから、そうしないと誰も来てくれなかったんです。認知度が上がってからは現地まではそれぞれで来てもらう形になりましたが、4年間で20回実施して、参加者や講師の多くがその後も海士町に関わったり、移住するようになりました。岩本くんや西上さんも講師として来島しその後移住しています。私もこのAMAワゴンに参加したトヨタの同僚に話を聞いて海士町に興味を持ったんです」。
地域に骨を埋めなくてもいい
「AMAワゴン」は若い世代が海士町に目を向けるきっかけになりましたが、それだけで移住者が増えるわけではもちろんありません。そこから海士町が関係人口のハブになっていったのには、地元の人の心の支援が厚かったこと、それから、移住施策ではあっても「この地域に骨を埋めなくてもいい」という姿勢で移住者に臨んできたことが大きいと阿部さんは言います。
阿部さん「移住者が「ずっといなければならない」と思うと、どうしても自分をその土地に合わせてしまい、自分の本領発揮をして、やりたいことができなくなってしまいます。そうではなくて、やりたいことをやってみる、いたいからいるんだと思えれば、思い切ったことができるし、自分で自分の環境をつくっていこうという自立した考え方になるんです。そして、そのほうが彼らを活かすことができます。だから海士町のキーパーソンたちは「骨を埋めろ」とは言わないんです」。
これは地域の人たちの”覚悟”の表れだといいます。「失いたくないもの」を失わないために変化を受け入れる覚悟が地域の人たちにあるかどうかが問われるのです。
阿部さん「地元の人たちはいわば「土の人」ですよね。それに対して移住したり、外から地域に関わる人は「風の人」。土の人は守りたいものがあるので変化を嫌います。だから「風の人」が入ってくることを嫌がる人もいます。でも、守るべきものを守るために変化が必要なことに納得すれば覚悟が決まり、意外と簡単に受けいれられます。つまり「何を守るために何を変えるか」が重要なんです」。
危機感から動き出した人たちは「守りたいもの」を地域と共有し、それを守るためには変わらなければいけないことを納得してもらうことで、風の人を受け入れることができます。そうして地域は大きく動き出します。
地域が動き、変化しても、守るべきものを守ることができれば、その地域「らしさ」は守ることができます。それができる地域に風の人は魅力を感じ、集まるのです。
活躍する風の人が関係人口を増やす
海士町が大きく変わるきっかけとなった「AMAワゴン」、その1回目の講師として登壇した岩本悠さんはその後、海士町に移住し、海士町の教育改革に取り組みました。
当時ソニーに務めていた岩本さんは、「教育で世界を変える」ことを目指していました。海士町の当時の教育長はそれに目をつけ、「この島をモデルに日本の教育を変える取り組みをしてほしい」と説得したのだそう。岩本さんは海士町に移住し、島前高校で地域の課題解決に挑戦する授業や島留学などを展開し、多くの若い人たちを海士町に呼び込みました。
岩本さんの取り組みは、いま実を結ぼうとしています。島留学にやってきた子どもたちと、その子どもたちと一緒に学んだ島の子どもたちは、高校卒業後いったんは島を出ますが、経験を積んで島に戻ってくるのです。
島留学の高校生以外にも、岩本さんを慕って多くの人たちが海士町に移住してきました。阿部さんもその一人。ですが、本当に重要なのは、移住者を増やすことだけではないといいます。
阿部さん「地方を元気にするために重要なのは、移住者を増やすことだけではなくて、ファンや関わってくれる人、いわゆる関係人口を増やし、その質を高めることです。そのためには人材のハブを抑える必要があります。岩本くんはまさに人材のハブで、彼から海士町の関係資本がどんどん増えていった。彼のようなネットワークとネットワークの間にいる人が関わることで、関係資本が増えていくのです」。
岩本さんによって海士町は人を人を呼び、たくさんの関係資本を持つまちになりました。そこに重要な役割を果たしたのは移住者だけではありません。「第二町民」と呼ばれる人たちも重要だと阿部さんはいいます。
阿部さん「関係資本の話からいうと、移住者ではない第二町民も重要です。リピーターや積極的に応援してくれる人、彼らも海士町の関係資本の中に入ってきます。水谷智之さんや梅原真さん(※)なんかは住んでる人よりも海士町のことを考えてくれているといってもいい」。
※ 水谷智之さんは元リクルートキャリア社長で、現在は岩本悠さんも共同代表を務める「地域・教育魅力化プラットフォーム」の代表理事。梅原真さんはグラフィックデザイナーで、海士らしさを表現するロゴマーク「ないものはない」をデザインしました。
海士町の人たちは第二町民も含めた関係資本を溜め込み、海士町を巣立った人たちはそれを活かして全国で活躍しています。
阿部さん「海士町にいると関係資本が増えていきます。その関係資本をたくさん持った人が海士町を巣立って、それを他の場所で活躍し始めています。私たちは、関係資本のおすそ分けだと考えています。全国の地域が元気になれば、それは海士町にも還ってきます。私たちは、日本の地域を担う共同子育てしているんです」。
海士町から、地域を元気にする人材が次々と日本各地へと排出される理由がわかったでしょうか。海士町が関係資本のハブであり続ける限り、この流れは続いていくのだと思います。そして、海士町から巣立った人々が、次の場所で海士町のような関係資本のハブをつくり、その地域が元気になっていく、そんな未来に確実に向かっているのだろうと思います。
文 石村研二